幻の猫たち 改訂版

まぼろしの猫を慕いて

吉沢元治  『アウト・フィット~ベース・ソロ 2 1/2』

吉沢元治 
Yoshizawa Motoharu 
『アウト・フィット~ベース・ソロ2½』
Outfit: bass solo 2 1/2 


CD: (株)ケンロード・ミュージック 
発売元: VIVID SOUND CORPORATION 
VSCD-3056 (2000年) 
¥1,850(税抜価格) 

 

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帯文: 

「ベースに真の己の唄を求めて流離う吉沢元治。
その心温まる精神の燭光。
〈1975年9月29日ベース・ソロ・コンサート〉」 


1.アウトフィット1(スパイラル) 11:50 
Outfit 1/Spiral 
2.ビーンズ・ダンス 6:35 
Beans Dance 
3.ヒカップ 2:51 
Hiccup 
4.ディスタンス 3:14 
Distance 
5.クロッシングス 3:16 
Crossings 
6.ソフト・ナッシングス 3:48 
Soft Nothings 
7.流連 4:38 
Ryuren 
8.アウトフィット2(ロータ) 11:51 
Outfit 2/Rota 


All performances composed by Yoshizawa Motoharu 
Personnel: Yoshizawa Motoharu, bass-solo 

録音: 1975年9月29日 青山タワー・ホール 
“吉沢元治ベース・ソロ・コンサート2nd”実況
#7 1975年11月7日 ケンウッド・スタジオ 
Recorded "Yoshizawa Motoharu Bass Solo Concert 2nd" 
live at Aoyama Tower Hall, Tokyo on September 29, 1975. 
(#7 recorded November 7, 1975 at Kenwood Studio, Tokyo) 
Concert produced by hangé-shat 

技師: 荒井邦夫 
写真: 山崎裕治 
デザイン: 日出島昭夫 
アルバム制作: トリオレコード 
Recording & mixing engineer: Kunio Arai 
Photos: Yuhji Yamazaki 
Sleeve design: Akio Hidejima 
Album produced by Kuniya Inaoka & kazuo Harada 
With special thanks to Aquirax Aida 


間章によるライナーノーツより◆ 

「音楽の制度と秩序の抑圧に対する戦いは果てしない時のさなかで、あらゆる多様な相と局面において戦われて来た。時代や状況が用意する音楽のスタイルやフォームはそれが固定化・安全化・様式化・秩序化されようとする時、それに対する二つの態度と精神の在り様を浮び上らせる、それは順応と反逆、肯定を通しての受動と否定意識としての能動といったそれぞれの相としてとらえられるだろう。即興音楽としてのジャズはこのこととまさにダイレクトに関わる形で生き続け、変容し続けたダイナミック(動態的)な音楽領域であった。それ故にこそジャズは決してひとつのコンテキストと系によって示されるような直線的発展と進化論的展開を成して来たのではなく、ジャズそのものの〈アマルガム性〉とひび割れて引き裂かれたトランスフィギュレイティブなそしてアンビヴァレンシャルな力によって、常に新しい可能性と又同時に不可能性を照らし出しつつ、本質的に戦闘者である多くの〈フリークス=異形者〉や〈イノヴェーター=革命者〉等の〈危機〉への進入と闘いによって、新たに基礎づけられ、蘇生され、新たに発見され続け、回復され続けて来たのであった。その時々の状況や抑圧の相の違いによって様々に異なるラディカルな〈個〉を浮び上がらせながら。音楽とは本来的にフラジルな不定形な、曖昧なものでありながら、具体的に強固な闘うものとしての肉体と精神によって支えられ、それが不定形であり未明であることによって苛酷さや亡びや退廃をまねきよせるようにして存在し続けて来た。演奏者とは音楽自体の〈アマルガム〉と、その演奏者自身の個の体験や記憶や修練、感性と理性の〈アマルガム〉との対峙を通じて、それらを能動的に闘わしめ、ありとあらゆる個と他者、その個自身の内のアンビヴァレンツの葛藤と相克の中でこそ見い出されるだろう行為者である。
このいわば個の抑圧からの解放への自己解体と自己組織とのベクトル間のダイナミズム、それこそが真に自覚的な表現者と演奏者出現させるものなのだ。自己と世界とをそのまま容認し、自己と他者との裂け目をどのような形であれ、のり越えようとすることのいまわしい関係性を放置し、作業による自己回復へ無関心であることをどこまでも拒否する“演奏者”とは故に、本質的にいまだない、不可視のアイデンティティーと解放の地平を求めての“危機”への進入者であり“危機の精神”そのものであると言えるだろう。そして60年代後半のフリー・ジャズという表徴的には集団の季節の果てにありとあらゆる形で登場した孤立者、“ソロ”演奏家はこれらの“危機”の在り様と深く関わるものとして考え得るだろう。
吉沢元治はまさにそのようなひとつの季節の果てから彼のベース“ソロ”による演奏活動を始めたのだった。」

「その彼が始めて本格的に人の前でソロだけのパフォーマンスをやって知られるようになったのは73年の「フリー・ジャズ祭」においてであった。後に「インスピレーション&パワー」の一部としてレコード化されたその時の彼のソロは情念に身をまかせるのでも、即興にすべてをゆだねてしまうのでもなく、あらゆるものを引きずり込み、そのすべてを抱えながら覚めてそして激しく展開されるという、いわば精神と肉体のせめぎ合いの相を浮び上がらせるものであった。当時彼はよく一曲40分や50分も執拗に演奏した。まるですべてを忘却することも断念することも出来ない自分を苦しめ、そして責めるように、又はあらゆる音のひだ、きしみ、ゆがみの迷路の中で自分自身を発見しようとするかのように。その時の演奏は吉沢にとって“ソロ”のさらに未知の局面への入口となる役目を果たした。後に「inlandfish」と名付けられたその演奏は、彼の“ソロ”のひとつのフォーマットとなったのであった。前もってどのようなアイデアもモチーフもテーマもない全くのフリーな即興であるその演奏は、吉沢のベースへの関わりと奏法への手がかりであったばかりではなく、吉沢という演奏者の存在性をシンボライズするかのものであった。「inlandfish」と「陸封魚」、つまり大古には海にいて後何らかの理由で陸に閉ざされ、河や内海=湖に住みつくようになった魚族の類を指す言葉である。ある魚類学者によれば、「陸封魚は淡水にありながら海に生息するのでなければ必要ではない器官をそのままに有している。又海水魚が淡水の中では余り生き長らえられないように、淡水魚も海水の中では生き長らえられないが、ごくまれには海の中でも生き続けるものもいる。 ―中略― 淡水魚としての陸封魚は決して海を知らない魚ではない。むしろ記憶の中には常に海が存在し続けているのである。」ということだが、微かなアルコで始まるこの曲は、河を泳ぎながら未知の場所へと向ってゆき、あらゆる出会いと生存のドラマを用意してゆくかのような予兆性に満ちみちている。それは現在の彼がどのようにテクニック的にも意識的にも進んでいたとしても、それ自体鮮やかな吉沢の或る〈現在性〉をくっきりととらえているものだと言える演奏であり、幾度も幾度も新たに発見されねばならない重要な演奏であると言うことが出来る。「フリー・ジャズ大祭」の後で、吉沢は継続的なソロ活動を続けるようになった。来日したデイヴ・バレルと共演して「ドリームス」をレコーディングしたのはそのような時期のさ中、73年12月の事であった。そして74年に入ってからの吉沢の“ソロ”の深化には目ざましいものがあった。単にテクニックではない様々の奏法を身につけ、あり来たりのベースの音の風景から身をひき離すようにして、吉沢は過激なまなざしをベースとそれにむき合う自己へ向け続け、自己を安住させることを許そうとはしなかった。「終ることは出来ない。終りはないのだ。そしてただ持続すれば良いというのでもない。どのようにして、どのようなものへ向けて作業し続けるかが問題なのだ」とその頃の吉沢はよく言っていたものであった。74年9月13日吉沢は彼の始めてのソロ・コンサートを新宿は安田生命ホールで持った。「INLAND FISH~孤絶の海と迷路そして空へ~」と名付けられたそのコンサートは、彼自身にとっても決して後戻りをしない為の、さらなる苛酷への旅立ちを示すものであった。途中に20分間の豊住芳三郎とのデュオを入れた三時間余りを、彼はもう時が残されてなどいないかのように演奏し続けた。そして、このコンサートが彼の“ソロ”の新たな位相への又もう一つの門口・出発点となったのだった。当日1部で彼は彼があらかじめ録音したごく限定的な奏法による演奏をテープで流し、それと交わり離れ、重なり、反発し合うようにして自分自身とのデュオを行ったのだったが、この試みを通して彼が後に「フラグメント=断片」と呼ぶ“ソロ”の異化的な関わりと、方法を見い出したのであった。この「フラグメント」とは何ものも許されているかの即興演奏にひとつの制約(奏法的・方法的)をもうけ、その制約を通して自己を解放し、あらゆる自分の発する音を見とどけようとする意識的な作業へのメチエであり方法なのである。その最初のとっかかりの演奏が、あのブリリアントな「inlandfish」や「window」と共に後にレコード「INLAND FISH」に収められている。彼にとってこの時からもうひとつの季節、自己の表現の解体、即興演奏の分解、自己抑制としての破片の海への進入、いわば一種の自己否定の旅が始まったのである。」
「75年の前半の殆んどを彼はこの破片の海のさなかで過した。(中略)そして75年6月彼の一生の中でも最も重要な出会いとなるだろうスティーヴ・レイシーとの出会いを体験するのである。それがどのように他に比し得ない出会いであったのかは想像にかたくはないが、今はその事についてはくわしく語らない。ただ彼は真に優れた孤立者の途方もない苛酷な闘いと作業の具体をレイシーに見たのだとだけ言っておこう。その事が自己の安全を決して許さない精神を通して、互いを〈友情(ラミティエ)〉に結びつけたのだと。そして7月彼は二枚目のソロ・アルバムを軽井沢の高原教会で二日間にわたってレコーディングした。この「割れた鏡または化石の鳥」というレコードは吉沢の“断片の作業”の集大成と言うべきものである。吉沢はそこで無限に多様なものによって引き裂かれながらも、あらゆるものが蠢く〈アマルガム〉の暴力にさらされながらも、“ソロ”とそれを支え又行う“個”とを確立させたと言えるだろう。」
「初のソロ・コンサートから丁度1年目の9月彼は二度目のコンサートを持った。このレコード「OUTFIT/YOSHIZAWA MOTOHARU BASS-SOLO-2½」に収められている演奏は(1曲「流連」を除いて)全てそのコンサートの時のものである。第1部吉沢のソロ、第2部吉沢、阿部薫小杉武久の三人の演奏、第3部吉沢のソロ、そしてフィナーレ三人による一台のピアノの連弾とすすめられたコンサートのソロの演奏の約半分がここに収められている。(中略)「OUTFIT」とは装具・装備・旅立ちの仕度・組織を表わす英語である。BASS SOLO 2½の2½とは最初の吉沢のレコード、「INLAND FISH」の半数がソロ、「割れた鏡または化石の鳥」が一枚のソロとするならこのレコードが2½枚目のソロ・レコードということになることから付された。(中略)1曲目の「Outfit 1 (Spiral)」は意識と行為との螺旋運動であり、吉沢が断片からひとつの綜合へ向かおうとしていることを示すまさにアクチュアルなドキュメントであり、ダイナミックな虚無への賭であり、同時に生命力の見事な発現である。(中略)二曲目の「Beans Dance」はベースのネックの部分の弦だけを両手で弾いて演奏されているもので演奏の背後の影のリズムを浮び上がらせるように全ての音を、様々な音色と強度でからみ合わせてゆく〈断片〉の内のひとつであり、どこにもないベースの異景を生み出している。3曲目の「Hiccup」はしゃっくりの意であり、ここで吉沢はベースの全体をパーカッションとしても把握しながら、音を断ち、連続化し、能動的に分解し再組織している。吉沢の演奏の表出世界の最も個性的なひとつの側面を現出させている。4曲目の「Distance」(距離)は74年の夏の或る夜の最後のステージの最後の演奏で即興的に生み出されたメロディーによっている。その日以後毎回、この曲を吉沢は全ての演奏の最後に演奏している。あらゆるものをひきずりながら、終りと始まりが交差するようにしてメロディーはかなでられ、そして消えてゆく。シンプルな悲を底に沈めた曲であり、なつかしさをまねび寄せるような素晴らしい演奏である。5曲目の「Crossings」はグリッサンドだけがくり返される〈断片〉の一曲である。」
「「Soft Nothings」は「Beans Dance」と同じにネックの部分のピチカートによって演奏される〈断片〉であり、S. レイシーに捧げられている。ベースのこのような音の表情を見い出した吉沢はせめぎ合う記憶とイメージの中で、存在の魔としてのやさしさについて、なにげないものの確かさについて、語っているかのようである。7曲目の「流連」これだけはコンサートの後でトリオのスタジオで取り直されたものである。「流連」とは女郎宿に居続け遊蕩する事であり、吉沢は20年近くもベースを弾き続けてきた自己へアイロニカルな敵意となつかしさのない混った視線を向けている。この曲は現在演奏されている曲の中で吉沢の最も古いもののひとつであり以前はただ「子守歌」と呼ばれ70年の頃から演奏されてきている。デフォルメされた激しい音の中から我々は吉沢の最もナイーヴな歌を聴き取ることが出来るだろう。それはノスタルジーでなく、思い出でもなくひとつの生を過去・現在・未来を通して刺し貫ぬく記憶のこだまなのである。
最後の曲は「Outfit 2 (Rota)」である。「Outfit 1」と同じく吉沢の新しい地平をかいま見せるきわめてラディカルな即興演奏である。回転(Rota)してゆくひとつのものへ向かうようにして、演奏は多極的に分化し拡散し、又ピチカートによってアセンブラージュされてゆく。音の様々なかけらは単独にそれ自体の孤立を守るのではなく、求心力と遠心力的な演奏のダイナミズムによって、破片のまま組織されエスパスを創出してゆく。そしてそこに又吉沢自身が立っている。さらに未知へさらに苛酷へ旅立つ、常に今は前夜なのだ。吉沢はその意志の前夜の中で、演奏の現在という真昼だけを体現しようとしている。その真昼はそして最も危機的な予兆と果てない斗いによって、光と闇を共に照らし出してゆくのだ。吉沢元治はそして常に自己をもう1人の他人である自己と向い合わせてゆくことによって犯罪者であり同時に証人でもあろうとしている。その犯罪とは彼の演奏を抑圧しようとするあらゆるものを否定してゆくという行為性によって示されるだろう。真の行為はそしてどこまでも凶々しく、どこまでも困難である他はない。」


◆本CDについて◆ 

ブックレット(二つ折り、内側はブランク)にトラックリストとクレジット(英文)。
投込みライナー(十字折り、両面印刷)にトラックリストとクレジット(日本文)、間章(あいだあきら)によるオリジナルLPライナー「〈OUTFIT〉破片の海から自己組織の海へ~吉沢元治の“ソロ”と演奏作業への覚書~」再録。

#2,3,4,5,6は同タイトルの曲(演奏)が前作『割れた鏡または化石の鳥』にも収録されています。

★★★★★ 


Distance 

youtu.be

流連 

youtu.be

 

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