幻の猫たち 改訂版

まぼろしの猫を慕いて

吉沢元治  『割れた鏡または化石の鳥』 

吉沢元治 
『割れた鏡または化石の鳥』 


CD: Modern Music (P.S.F. Records) 
PSFD-55 (1994年) 
税抜価格¥2,800(税込定価¥2,884) 

 

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帯文: 

「ソロ・ワークの原点となる名盤が遂に登場!」


1.ワルツ・トゥ・ランチ waltz to lunch (for children) 
dedicated to Robert Ryan 
2.割れた鏡 cracking mirror
dedicated to Takuro Ise 
3.ささやき soft nothings 
dedicated to Steve Lacy 
4.ビーンズ・ダンス bean's dance 
5.オブセッションNo.9 obsession No.9 
6.小品 fading pieces 
dedicated to peoples that my mother left 
7.化石の鳥 the fossil bird 
dedicated to Barre Phillips 
8.しゃっくり hiccups 
9.クロッシングス clossings 
10.ディスタンス distance 
dedicated to Aquirax Aida 


Produced by AQUIRAX AIDA / YUKIO KOJIMA 
Photo by YŪJI ITSUMI (Front Cover) / CHOE KOSEI (Back Cover) 
Recorded at KARUIZAWA KŌGEN KYŌKAI JULY 27/28 1975 
Recorded by KOJIMA RECORDINGS, INC. 
Designed by YASUNORI ARAI 
A'LA PAPA & CO. 


◆本CDについて◆ 

4頁ブックレットに清水俊彦による解説「ひび割れた音のうねり」、トラックリスト&クレジット。

LPはALM Records/半夏舎より1975年リリース(AL-6)。本CDではジャケットデザインが変更されています(オリジナルLPジャケはモノトーンでブックレット裏表紙&インレイに掲載)。CD解説(短文)は清水俊彦によって新たに執筆されたもので、LPに掲載されていた吉沢元治による短文(ジャケ裏)と間章による長文解説(インサート)はオミットされています。


◆吉沢元治によるLP版ライナー(本CD未収録)より◆ 

「落日に向って、弧を描いてのびる海岸線。左が海、足の下でぶつぶつと場所を変える小石、水平線を見つめる事が出来ない。多分、空と海は境いもなく僕の頭上にまくれこんでいる。白く泡立つ帯となり波うちぎわに吹きよせられた海のつぶやき。ホテルの冷蔵庫の勤勉きわまるおしゃべりが、足下の小石を盗む。楽器を持つ事によって現実らしきものを背骨の軋みでかろうじて繋ぎとめる。
 今、僕はどこに。
視線が、うろうろと平行を保ってうずまく。行きあたりばったりに動く指、それ、それと音が音をせっつかせ目ばたきするごとに、見失う方向。
 僕の肉体(そして精神)は油のきれたロボットだ。せばまる視野、鏡の奥から僕を見ている音、弾く事を選んだのは僕だったはずだ。合せ鏡の奥、おく、奥。割れて散りぢりに遠ざかりながらしかし決して見失う事が出来ない破片。ひとつひとつに同一の何かが映っている。確かに、今は小石の軋りを想い出す事が出来ない。
8月18日 函館にて」


間章によるLP版解説「吉沢元治の未明 または〈空と破片〉へのエスキス」(本CD未収録)より(引用は深夜叢書社刊『非時と廃墟そして鏡 間章ライナーノーツ』に拠る)◆ 

「果たしてどれだけの冬が過ぎ去ったのだろうか。どこかしらで出会ったすべての〈午後〉の出会いを見つめる時、さらに遠くさらになにげなく私がふみ迷ってゆくのはいつも一つの冬にすぎなかった。みてしまうことの果ての寒さの中で今はもう通り過ぎて来た部屋達の窓さえも思い描くことができない。言葉を沈め声を静めてゆき、一つの咽を押し殺しながら、訪れる様々な風のような記憶に吹かれる時、私に浮かんで来るのはそう何も映しはせず、それ故にこそ様々の想念に色どられたそれぞれの空に過ぎない。
 現(うつし)の光景をすぎて季節をもまた通り過ぎながら私は今もう窓を失くしてしまった空を見つめ、空を見つめようとしている自分と自分の〈ここ〉について考えている。終りも始めもうばわれたまま〈今〉に晒されてゆく私には見わたす限りの廃墟がありそして亡びとなつかしさが呼び交わす現在の荒野だけがひらけてゆく。今はそう私は記憶と空に照らされる私自身の表情が思い出せず凶々しくもなつかしいだけなのだ。そうだった。雨が降っていた。迷路から迷路へ、季節から季節へ、北からそして北へ私自身のいまわしさの中で渡っていたその頃の私はまるで、もう一本の煙草に火を点けるようにして一つの部屋へ入っていったものだった。思い出の中の部屋はいつも暗さと曖昧さの中にある。私は確かそうだ他のどこでもなくその暗さの中で吉沢元治と出会ったのだった。」
「吉沢は誰も始めようとはしない場所から〈個〉の場と演奏を苛酷さとして始めなくてはならなかったし、彼はそれを始めていった。それは長い季節の長いゆるやかな始まりだった。私はその長いゆるやかなしかしせめぎ合う始まりの中で吉沢が何を見ようとし何へ向かおうとしていたのかを今想像する事が出来る。個の安全さと自在さを個の不可能性に向かいながらそして自己を破片のように見つめながら、許されてはならない、許されるはずもない個的な即興の未完成さを見きわめようと吉沢はしたのだった。吉沢は前進も後退もしなかった。ついには自己と他者を発見するであろう自らの暗い表情と、音の風景をこそ彼はまさに〈個〉の〈今〉の中で認識としてではなく過程の覚めとして見ようとしていたのだった。歌へと向かいながら、歌を拒み、歌から拒まれ、全体から身を引き離しまた裏切られるようにして吉沢はそこにい続けたのだ。そしていつも見知らぬもののようにしてベースは彼のかたわらにあった。(中略)五年の間吉沢はベース・ソロによる演奏活動を続けた。誰もその時間を長いとか短いとか言う事は出来ない、吉沢自身でさえも。それはただ引き続く未明のさなかにおいてだけ見わたせる光景なのだ。ただ理由も根拠もない証しもない、作業の持続だけがそれを引きついでゆく、取り残させるのはそしていつも吉沢の明らかさなのだ。さらに吉沢は明るさから迷路を迷い、暗闇の中で途方もない演奏の仮性と未明に気づき、もう一度ベースを弾き続けてゆく。或る時吉沢は言った。「僕の辿りつこうとする音や演奏はいつも鏡の向こう側にある自分のように遠く映っている。現実の演奏は鏡の中の音の不明な反射に過ぎないように思える。そしてその鏡は無数にひび割れているのだ。僕のやろうとしている事、それはその鏡の奥の演奏を実現することではない。辿りつけない事の故に現実の演奏を作業づける事なのです。何故なら私はそのひび割れた鏡の奥の演奏を一度として見ることも聴くこともないからなのです」。」

「一曲目の「ワルツ・トゥ・ランチ(フォー・チルドレン)」は破片のような音のかけらのまさぐりからふと現われてくるワルツ風のメロディとそれをもう一度破片そのものへ帰そうとする音達によって形成されている。そこではワルツでもメロディでもなく、吉沢のひそやかな未明への自覚こそがある。その日食べたお子様ランチのめぐり来る記憶となつかしさ、そしてドルフィの『アウト・トゥ・ランチ』を思い出しながら曲名はつけられた。吉沢は亡霊のようにして立ち現われる演奏にたち会おうとしている。そしてワルツも存在のランチもついには見失われたままでいる我々へ向けて音としてそこにあるのだ。この演奏はあの例えようもない微笑を浮かべてスクリーンから去っていった『ワイルド・バンチ』のそして死を知りつつ思い出ある品物を必死でひろい集め階段を登っていった『狼は天使の匂い』のロバート・ライアンのスクリーンの彼方の思い出にささげられている。
「割れた鏡」はアルコによる重音をえんえんとひき続ける曲である。二つの音の波の谷間でまるで虚のように音の干渉波がわき起こり我々は音の位相を見失いまさにひび割れた音のうねりの中でそこには決してない音の像を聴こうとしてしまう耳を用意する。裂け目の中に我々の自我がありそれは後を向いている。その現場へ立ち合うようにして吉沢は演奏を行い続けてゆくのだ。「ささやき」はベースのネックの場所で二つの手、十本の指によるスクラッチングで演奏された。(中略)吉沢はこの演奏をスティーヴ・レイシーに捧げている。(中略)「ビーンズ・ダンス」は「ささやき」と同じ手法でなされた不在のリズムへのまなざしによっている。(中略)吉沢は遠くへ瞳を向ける。しかしそれは現在に宙づりにされたままなのだ。「オブセッションNo.9」はまさに吉沢の演奏における反復へのオブセッションであり、オブセッションの所在を確かめようとする為の中断のない反復である。(中略)「消え去る小品」それは演奏が自立し演奏となる以前の予感のような小品だ。なにによってもそれは引きつがれず、気配だけを残して無表情に音は消え去ってゆく。未来も過去もそこにはなく、消え去ろうとする何物かだけがある。思い出が時として苛酷な未明としてあるようにまた、未来が悲痛ななつかしさとしてあるようにして。B面の一曲目の「化石の鳥」はこのレコードにおける最も長い演奏断片であり、あらゆる異なる声と断片によってつむがれてゆくフリー・インプロヴィゼーションである。(中略)聴こえるのはベースのきしみであり吉沢の矛盾のきしみでありそして今に閉ざされた感性の記憶の中の化石の鳥のような行為性なのだ。(中略)「しゃっくり」はベースのハンディキャップの確認である。歌を歌えないベースは声でも言葉でもなくしゃっくりのように演奏者の手の中で宙天する。音が音とぶつかりなごやかな並存がいつわりであることを教えるようにつんのめり、ひっくり返り、後もどりしてゆく。断片は演奏展開へ至らない。それはさらに無数の断片へ向かってゆくだけなのだ。「クロッシング」はアルコによるスライド奏法にだけよった演奏である。上昇し下降し音は行先を決して発見しない。この演奏は吉沢がいるべき位置をこそ我々に暗示してくれる。厳密であろうとする時、何かがすべってゆき、とらえようのないへだたりの中で一つの行為はもう一つのおぞましい行為とすれ違い交差する。永遠に平行する二つの糸達、それをこする指ともう一つの糸達、空間はどこまでもいびつで感性はいたみのようにただ張りつめてゆくのだ。「ディスタンス」はこれまで吉沢や私の間で「二つの音」と呼ばれて来た断片である。吉沢は一年前の初夏、或る喫茶店の最後の演奏で突然この演奏を行ったのだった。(中略)それ以後吉沢はどこの演奏会でもこの断片を最後に演奏する。それはその日のそしてこれまでの吉沢の演奏のあらゆる残留物と予感、あらゆるカオスを含んで余韻のように響いてゆく。それは始めと終り、次の演奏へ虚のようにしてうながしを用意する。なつかしさが脱け落ちた音達がなつかしさを探してゆく。そしてなつかしさはいつも〈そこ〉にも〈ここ〉にもないのだ。」

★★★★★ 


割れた鏡または化石の鳥

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