幻の猫たち 改訂版

まぼろしの猫を慕いて

阿部薫  『なしくずしの死』

阿部薫 
Kaoru Abe 
『なしくずしの死』 
Mort à crédit 
Saxophone Solo Improvisations 


CD: ALM Records/コジマ録音 
ALCD-8, 9 (1995年) 
税込定価¥4,000/税抜価格¥3,883 
[LP: AL-8, 9 初版℗1976/再版℗1983] 

 

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MORT À CRÉDIT 
Kaoru Abe 
Saxophone Solo Improvisations 

AL-8 (A) 
Alto Improvisation No. 1 ★ 
AL-8 (B) 
Alto Improvisation No. 2 
Alto Improvisation No. 3 ★ 
AL-9 (A) 
Sopranino Improvisation No. 1 
Alto Improvisation No. 4 Part 1 
AL-9 (B) 
Alto Improvisation No. 4 Part 2 
Sopranino Improvisation No. 2 

★印は1975年10月18日 青山タワーホール、コンサート〈なしくずしの死〉よりライヴ録音 
その他は1975年10月16日 入間市民会館に於て収録。

PRODUCED by HANGESHA & AQUIRAX AIDA - YUKIO KOJIMA 
PHOTO by MASAHIRO IMAI 
DESIGNED by NOBUKAGE TORII 
RECORDED by KOJIMA RECORDINGS, INC. 


◆帯裏注記◆ 

「お詫び: マスターテープ不良のためレコードよりdcs-900B A-Dコンバーター、24ビットを使用して収録いたしました。多少ノイズがあり お聴き苦しい点もございますがご了承下さい。」


◆本CD解説(間章)より◆ 

「一人の人間が生存の荒野へ意志的に踏み入ってゆく時、その人間がいずれ立ち会わなくてはならないひとつの究極性というものが存在する。
 その究極性はひとつには厳格な自己注視を通して自己の終りを見とどけようという欲望=意志の形をとり、もうひとつの究極性は禁欲を介して脱我=脱自への行=実践の姿をとる。」
「自己破壊とは自己が自己の終りを見きわめ、見とどけようという形での自己所有に他ならず、それはあらゆる精神なるものの物質(肉体)化へ向うところのものに他ならない。自己破壊者が終極において自覚するものは、その意味において生と共に死を物質的に所有することである。そして自己消却・自己喪失とは物質の精神化をとおしての自己の無化を目指すものであり、無名性(アノニマス)と個有性の無意識や他者への溶合化を通して、より大きなものへ連ろうとするものである。この二つに引き裂かれた道の前で、そのどちらの道へも進み入ることの出来ない、迷える現存者は永続的に斗わなければならない現世の戦闘者である他はない。自己破壊という形で自己を閉じることも、自己喪却という形で自己を開くことも出来ない行為者は、現実の意志のさなかで途方もない自己と生存の自動性を前にして自己組織と自己解体との間を往復する苛酷だけをひき受けて斗い続ける他はないのだ。それを私は個の生存の秘義性をうばわれたままの第三の秘義と名付けたい思いにかられる。無限に宙づりにされた肉体と精神の永遠の現在の中なる斗いと行為。それは自らが石になることも水になることも禁じた無産者としての行為者を浮び上らせるだろう。他に転化出来得ない、変容さすことの出来ない、自己と他者への果てしなく鮮やかな悪意をどこまでも研ぎ続ける者こそ、絶対否定を通して絶対肯定を抱え込んだ他に比すことの出来ない破壊を成すのではなく意志する〈破壊者〉であり〈呪詛する人〉であるだろう。彼は絶対に救済を信じないし、又解放も信じない。そして脱自を没自と共に拒否する〈個〉なのである。
 ルイ・フェルディナン・セリーヌはまさにこれらの意味において圧倒的な精神を持つ〈破壊者〉であった。彼の書いた全ての小説は(中略)人間の制度と生存への悪意と呪いに満たされている。(中略)彼の小説世界はヒューマニズムもアンチ・ヒューマニズムもことごとくに無意味なものとしてしりぞける力、創造も再生も否定し、やさしさも亡びも同じものとして認識する覚醒と注気の共存する力によって支配されている。そして彼こそはニーチェの後で人類史上に登場した、全く異った相貌の二人目のニヒリストと言うことが出来るだろう。〈なしくずしの死〉という書はアイロニカルな諦観者の書ではあり得ない。それは自我と生存をめぐる思想の書であり、自我と生存への答を秘めた悪意ある反聖書である。
 私達の目の前にまるでそれぞれ四つの道を示すようにして、ノヴァーリスニーチェマルクスとそしてセリーヌがいるという事程、我々を困惑させる事はないだろう。生存の荒野へ進入してゆく行為者の凶々しさと不吉さをそして栄光をこの四者はそれぞれの方向から照らし出している。そしてその荒野へ踏み入ってゆくのは一人一人の〈私達〉であり私である他はない。自己組織と自己解体の二つの極の中にゆれ動きながら、一方には霊的なエソテリックな自己解放の行へも向っている思いの中のこの私もそして例外ではあり得ないし、私がこれから一人の行為者として語ろうとしている阿部薫も又例外ではないだろう。」

阿部薫は明らかに演奏行為を音楽行為としてとらえてはいない。それは自我の抑圧と呪縛を解き放つ斗いの為めの武器なのであり、他者の強圧のもとにある自己を否定し、超克する斗いの方法であり、世界を変革し、現世界の強制としての制度を解体する斗いの、唯一性の戦略なのだ。彼の暴力的な攻撃性はそれ故に先ず自己の実存に向けられている。そしてそれは、死者の呪詛を解き放ち、個を個として、他者を他者として、黙契を黙契としてたたしめ、よみがえらせる為めの呪法でもあるのだ。彼の破壊力はそれ故に物理的なパワーのかたちを取らない。ロゴスのアンチ・ロゴス化の地平にこそ彼の演奏はひらけてゆく。(中略)彼は誰よりも厳しいロゴスとソフィアを持っていると同時に、誰よりもアンチ・ロゴスと狂気に本質的に近づいている行為者である。現実の生活者としての阿部のデカダンスは彼が演奏の危険、深淵に入ってゆけばゆく程、白痴性と凄惨さと遊戯性を帯びて増大してゆく。彼はまるで演奏による呪法としての破壊作業ときそうようにして、現実的な自己破壊を進行させてゆくのだ。さらにひらけてゆく虚無へ降りてゆけばゆく程、彼には死の匂いがつきまとい、破産者、無産者としての貌がきわだってゆくのである。(中略)そう、阿部は演奏の究極の地点に立っている。もしかしたらそれが音楽の死滅の地点であるかも知れないところに。そこではただひとつの事だけが確かなのだ。我々はどこへ後もどりすることも出来ず、虚無だけが光り輝やき、我々がそれぞれのニヒリズムのおそろしい闇とこそ直面しているのだという事が。」

「私はこのレコードを我々の時代の季節の凶々しさの最も鮮やかで危うい証としてここに提示する。ここにはジャズ・ミュージシャンのモルグ(死体置場)をのり超えた、真に超出的な演奏と音達がある。そして我々の亡びと可能性を体現するかのようにして存在している阿部薫という人間のロートレアモンにもたとえられる呪われた破壊と否定作業の生ま生ましい刻印がある。真の作業と創造行為がすべてそうであるように、己れを蝕みミイラのように晒すことによってしか、何物もリアライズできないという行為の最も苛酷で輝やかしい軌跡がここにはあるのだ。(中略)Alto Improvisation No, 1 を聴いて見るがいい。アカシヤの雨が止む時……は呪われた個のエレジーであると共に、時代と実存へのレクイエムのように、なつかしさのままに殺しつくされてゆく。そこではあらゆるものがせめぎ合っているのだ。死の匂いと共に…。そして Alto Improvisation No. 3 は終末と始源の呼び交わしであり、解体と再生への過激な落下であり、生の一回性と、演奏の一回性の酷薄な同化であり、破壊とジェノサイドへの無限大の加速度と集中力による終りなきフーガなのだ。ソプラノ・サックスによる二つの演奏は天上的なものと地獄的なもので、神的なものと魔的なものとのポエジーの交感術であり交霊術であり、死を死へ送り返し、生を生へ送り返す儀礼なのだ。40分近くにおよぶ Alto Improvisation No. 4 は世界を反転させ、死滅と生誕を同時に反復させるかのリアライゼーション(演奏)だと言えるだろう。それはやさしさと悪意の呪われたディヴェルティメントである。このレコードはその始めから、あらゆるエンターテイメントを追放し去っている。(中略)このレコードはそして時の流れとともにサックス演奏の最も恐ろしいモニュメントとしての、ドキュメントとしての姿を次第に明らかにしてゆくに違いない。そして又我々はこのレコードの最初に針を落す度に、苛酷な儀礼とイニシエーションへ巻き込まれ、その度に我々の生存自体の悪夢と直面してしまうだろう。
 針を落す……やがて聴えてくるのはミシェル・シモンセリーヌの『夜の果ての旅』を朗読する声……その声が消え入ってゆくと、会場のドアが風の音と共に閉じられる……
 そしてアルトが吹き始められるのだ。そこから我々の「夜の果ての旅」が始まる。さらに深い夜へ、さらに終りなき夜への旅が。」


◆本CDについて◆ 

紙ジャケ(厚紙・見開き)仕様。投げ込み(4頁、中ジャケを再現したもので、内側はブランク)に間章(Aquirax Aida)による解説「〈なしくずしの死〉への覚書と断片」、トラックリスト&クレジット、写真図版(モノクロ)9点。

★★★★★ 


Mort A Credit 1995 CD1 & CD2 (Full Album) 

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