ミルフォード・グレイヴス  『メディティション・アマング・アス』

ミルフォード・グレイヴス 
Milford Graves 
『メディティション・アマング・アス』 
Meditation Among Us 


CD: DIW Records/Distributed by disk union 
DIW-357 (1992年) 
税込定価¥2,800(税抜価格¥2,718) 

 

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帯文: 

「生命のリズムを刻むハイパー・ドラマー、伝説の東京録音。
阿部薫近藤等則、高木元輝、土取利行との共演。●収録時間:36分」


1.トゥギャザー・アンド・ムービング 19:51 
Together and Moving - M. Graves 
2.レスポンス 16:05 
Response - M. Graves 


Drums, Percussion, Piano, Voice 
ミルフォード・グレイブス Milford Graves  
Tenor Sax 
高木元輝 Mototeru Takagui  
Alto Sax, Sopranino 
阿部薫 Kaoru Abe  
Trumpet, Alto Horn 
近藤等則 Toshinori Kondo 
Drums, Percussion 
土取利行 Toshiyuki Tsuchitori  

Recording & Remix Engineer 
デビッド・ベイカー David Baker 
Assistant Engineer 
井口進 Susumu Iguchi 
Cover Photography 
桑原敏郎 Toshio Kuwahara 
Liner Photography 
桑原敏郎 Toshio Kuwahara今井正弘 Tadahiro Imai、波田真 Shin Hada 

Recorded at Polydor 1st Studio, July 28, 1977 
Remixed at Polydor 2nd Studio, August 16, 1977 

Supervised and Artist-cordinated by 間章 Aquirax Aida 
Produced by 磯田秀人 Hideto Isoda 


◆本CDについて◆ 

4頁ブックレット(内側はブランク)裏にトラックリスト&クレジット、写真図版(モノクロ)9点。インレイにトラックリスト&クレジット(英文)、写真図版(モノクロ)1点。投げ込みライナーに野口久光「ミルフォード・グレイブスの来日、そしてこのすぐれたおき土産について」、間章「「メディテイション・アマング・アス」鮮烈にして開かれたラディカルな音達」。
オリジナルLPは1977年にKitty/ポリドールよりリリースされました。

★★★★☆ 


間章が招聘した三人(スティーヴ・レイシー、ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリー)のうち、デレク・ベイリーは演奏も発言もたいへんしっくりくるのですが、ミルフォード・グレイヴスは、凄いことは凄いですが、なんとなく押しつけがましい所があるし、マーシャルアーツをやったり、指導者的言説が目立つので苦手です。

それとは別に、阿部薫もミルフォードが苦手だったようです。

副島輝人『日本フリージャズ史』より:

「死の前年、当時『半夏舎』という集団を組織していた間章がミルフォード・グレイヴスを日本に招き、何人かの日本人ミュージシャンとの共演を企画した。その時の阿部とミルフォードの闘争は凄かったと、豊住は言う。
 二人の間には、音楽性や性格的なことだけでなく、何か決定的に合わないものがあったようだ。互いに相容れなかった。」
「豊住の話では、福島県の平で二人が共演した時、それは一緒に音楽をやるというようなものではなかったという。阿部はミルフォードのドラムセットの前に向い合って立ち、ミルフォードを睨みつけながら凄絶なまでに吹き続けた。ミルフォードも激昂して、激しいドラミングで阿部の演奏を潰そうとする。音楽による陰惨な死闘だったと、同じドラマーである豊住の眼は見、耳は聴いた。
 ステージが終った後、阿部は「ミルフォードは途中で止めたんだから、奴の負けだ」と言った。ミルフォードは、つぎの日からのスケジュールでは、阿部は外せと言ったという。」

これは次のような文章(間章によるデレク・ベイリー『デュオ&トリオ・インプロヴィゼイション』解説)と比べてみると興味深いです。

「デレクは共に演奏するミュージシャンに一言の意見も言わなかった。どのように演奏しようともそれはそれぞれのミュージシャンの完全に自由であった。(中略)或るミュージシャンは言ったものだ。「僕はいつも人と演奏する時自分にとまどいや不安がある。特に自分のやって来た演奏が罪なのではないかという疑念がある。しかしデレク・ベイリーは僕に自分の演奏が罪ではないということを教えてくれた。それはすごいことだった。」と。」

この「或るミュージシャン」は阿部薫で、間章「〈なしくずしの死〉への後書」(初出「morgue」No. 2/月曜社刊『間章著作集Ⅱ』所収)には、「彼と演奏して、私はいままで誰とやっても感じて来た、自分の演奏が罪なのではないか、方向が間違っているのではないか、という疑問の答えを得られたと思った。デレクと演奏して罪ではないとはっきり確信できた。それが本当にうれしかった」と阿部が語った、とあります。

間章のミルフォード観も後にはやや変化したようで、1978年11月の同志社大学での講演会「二〇世紀 音とのKONTAKTE(接触)」(月曜社刊『間章著作集Ⅲ』所収)では、次のように語っています。

「僕がミルフォード・グレイヴスにいま決定的に限界を感じているのは、ミルフォード・グレイヴスにアンサンブルが可能なのは、ミルフォード・グレイヴスと同じように強くて、同じように精神的に強いミュージシャンが出てきたときに初めて可能となるアンサンブルを基準として考えているという点です。
 デレク・ベイリーの演奏は、(中略)彼が彼固有の場所に立っているということ、それからそれぞれの他者がそれぞれの他者のままに固有の場所に立っていることによって即興のアンサンブルが可能になっているという、その二つの点によってミルフォード・グレイヴスとはまったく違うと思っているわけです。
 僕は最終的には、ミルフォード・グレイヴスのミュージシャンとしての特権性というか、彼のように強くて、よりはっきりとトラディションにも根ざしていて、よりはっきりした肉体意識をもっているのでなければ成り立たない、同じレヴェルの人間が集まったときにだけ可能となる即興のアンサンブルというのは、結局今の現代音楽と同じ問題を提示しているんじゃないかと思うわけです。つまり、用意していたシステムを強要し、それを同じように理解し、同じように達成した人間どうしがひとつの地平を分かち合えるという考え方で――僕はそれを観念の強権性といってるんですけれども――それ自体、行き詰まってるんじゃないかと思うわけです。
 デレク・ベイリーは、(中略)いっしょに演奏した日本のミュージシャンも同じことをいってますが、なんら圧迫感を感じない。それと同時に、自分が何をしても可能だし、どのようにしても自分自身であることが一番いい演奏ができることになると気づいたっていう、それはとても単純なことながら、それを聞いて僕はやっぱりそれはとても大切なことだと思って、ずっとそのことについて考えてきました。
 そこで考えるのは、カール・グスタフユングのいう精神分析学です。彼は自分の精神分析学の継続的なテーマについて、自分自身が自分自身になることだといっています。それを音楽の場面に翻訳していえば、自分が自己であることによって、他者あるいは他者以前のどのようなシステムからも強圧を受けないで、自己のよって立つシステムの中でそのシステムを次の段階へと変化させてゆく、それを決して固定化させずに変化させてゆくことでしか自分自身とめぐりあえないのではないかということになります。
 僕はそういう意味で、デレク・ベイリーは、今それを完全な意味で体現している完璧な即興演奏家だと思っています。」

ちなみに、ミルフォードの阿部観も後には変化したのか、阿部の没後にリリースされた『彗星パルティータ』に寄せた追悼文では、阿部は偉大な演奏家だった、生きていたらまた共演したかった、と記しています。


Meditation Among Us

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