幻の猫たち 改訂版

まぼろしの猫を慕いて

高柳昌行・阿部薫  『集団投射』 

高柳昌行阿部薫 
『集団投射』 
Masayuki Takayanagi, Kaoru Abe 
Mass Projection 


CD: DIW Records/Distributed by disk union 
DIW-424 (2001年)
税抜価格¥2,300 

 

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帯文: 

「遂に陽の目を見る未発表音源は、「解体的交感」を凌ぐという伝説の演奏。30年を経た今、輝き始める過激な音群! 解説:悠雅彦」


1.集団投射―1 29:25 
2.集団投射―2 24:38 
演奏――高柳昌行…g、阿部薫…as、shakuhachi (with reed) 
録音――1970年7月9日(ステーション'70、渋谷) 

DIRECTOR: 石谷仁 
MASTERING ENGINEER: 北村修治 
DESIGN: 新井康祝 
PHOTO: ©スイングジャーナル社 

©2001 Selfportrait 
℗2001 disk union 


◆本CD解説(悠雅彦)より◆ 

高柳昌行阿部薫がステージ上で初めて相対峙したのは1970年5月のことである。一昨年('99年)秋にCD化された『解体的交感』の解説ノートに掲載されている故・間章の一文によると、間章自身を介して運命的な出会いを果たした2人は、出会った直後の同月7日と14日に交感を果たしあい、後者では何と4時間半にも及ぶ対話をたたかわせたという。4時間半もの長時間にわたって「投射」を実践的に展開しあった両者の行為がどれほど日常を逸脱したものであったかは、目の当たりにできなかった私には想像をたくましくするしかない。だが、故人が先の同文末尾で、安易な評価や判断が不可能な演奏行為であり、だからこそ日常性を超えたリアリティーをもちうるもの、と述べた件りがすべてを物語っているように思われる。冒頭に掲げた『解体的交感』はそれから約1ヵ月半後の6月28日のライヴ(新宿厚生年金会館小ホール)であった。」
「この度、ついに陽の目を見ることになったCD2枚からなる第1集『集団投射』(本作)と第2集『漸次投射』は、ちょうどその10日後に渋谷の「ステーション'70」で行われたライヴであり、3つのセットを完全収録したものである。実際には当日、「集団投射-1」(本作①)、「漸次投射」、「集団投射-2」(本作②)の順で3つのセットが行われたようだが、収録時間の都合上、「集団投射」を並べた本作が第1集となった。この第1集と第2集を聴けば、新たな決意のもとで新しい生を出発しつつあった両者が巡りあうべくして巡りあい、高柳昌行が'69年にみずからの「ニュー・ディレクション」で提唱した新しいインプロヴィゼイション概念の基調となる「漸次投射」と「集団投射」の方式を、1対1の形で実践する試みに1つの道筋をつけた(『解体的交感』)あと、ついにこの邂逅の1つのクライマックスが達成されたとみなしうる驚くべき展開に、私たちは否応なしに戦慄させられることになるだろう。」
「「投射」とは要するに演奏行為とそれを通して発現されるサウンドを意味するが、といって「投射」が彼の思想的背景とこの言葉の裏に隠された多様な次元性に立脚していることを思えば、ことはそう生やさしく解釈しえるものではない。高柳の感覚を通して発露する表現と行為のリアリティーやヴェクトルが、光をあてられた共演者、聴衆の1人ひとり、翻って自己の内部にどう反響し、どのように投影され意識されるかといった深部にまで及んでいくこの「投射」にあっては、ジャズはもはや幻覚的な存在でしかなくなる。そこでの彼はすでに演奏のユニティーを目指しているのでも、論理的帰結を与えようとしているわけでもない。本演奏は形の上ではデュエットだが、2つのヴォイスはそれぞれに独立しあっており、通常のインタープレイとはほとんど無縁の〈静〉と〈動〉を孕んで進行する。狂気と覚醒が交互に激しく入り混じりあい、一切の形式化を断乎として拒むかのように孤絶したこの苛酷極まりない表現語法とその轍の跡(サウンド)は、高柳のいう〈生〉と〈死〉、いい換えれば人間の〈根源〉的なものへと向かう行為(闘い)の跡であり、文字通りラディカルな作業といわなければならない。この作業の結果は決して日常的なものであってはならず、まさに間章がいう「日常性を越えたリアリティー」をもつにいたっているからこそ、このサウンドは当時はもとより今なお新鮮な驚きに満ちているのだ。(中略)「漸次投射」は〈静〉を基調とする〈空間〉の表現であり、間歇的に継起する〈沈黙〉がスペース全体を支配する(第2集)。一方、この第1集には既述の通り、当夜の第1部と第3部のセットで構成した「集団投射」が収められている。〈空間〉性を柱にした「漸次投射」に対して、この「集団投射」は〈時間〉的な有効性に立ってエネルギーを投射したもので、〈速度〉の操作によってあらゆる論理が解体されていく2つのプロセスが提示されている。」


◆本CDについて◆ 

透明ジュエルケース。ブックレット(巻き3つ折り)にトラックリスト&クレジット、写真図版(モノクロ)3点。インサートに悠雅彦による解説。インレイ内側(トレイ部分)に写真図版(モノクロ)1点。

「脳の三位一体論」というのによると、人間の脳は三つの層を成していて、爬虫類脳(反射脳)・哺乳類脳(情動脳)・人間脳(理性脳)であるということですが(ネット知識)、ここでの二人は「爬虫類脳」で演奏しているといってもよいです。要するに、どこまで爬虫類になれるか、であって、それは人間にとってはたいへんむずかしいことなので、阿部は#1では「花嫁人形」のフレーズを導入たりして、いわば哺乳類に後戻りしそうになったりしますが、ひとしきり哺乳類へのノスタルジアにふけった後、再び奮い立って高柳と共に爬虫類としての自己に還ってゆくさまは感動的ですらあります。
#2で阿部は再び哺乳類だったころのことを思い出して、ひとり感慨にふけるものの(動画 46:36)、かなしみのうちにも毅然として爬虫類としての自己を取り戻してゆくさまに、聴き手である我々も勇気を与えられることでしょう。

★★★★★ 

 

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(最後の5分くらいは別の音源です)

 

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