幻の猫たち 改訂版

まぼろしの猫を慕いて

レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ  『レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ』 

レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ 
『レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ』 
Reale Accademia di Musica 


LP: セブン・シーズ・レコード 
発売元:キングレコード株式会社 
シリーズ:ユーロピアン・ロック・コレクション・パートⅨ 
K22P-281 (1982年) 
超特別価格2,200円 
Printed in Japan by NPc.  

 


帯文:

「★オリジナル・ジャケット使用★」
「●プログレ・ファン待望の特別企画厳選に厳選されて実現!●」
「イタリアにはクラシカルな要素を持ったロック・グループが多いが、このレアーレもそんなひとつだ。
ドラマティックな曲構成もイタリアらしいが、キーボード・ワーク、特にアコースティック・ピアノのシンプルで美しい響きは、このバンドの特徴でもあり、“聴きもの”となっている。淡々としたヴィジュアルなメロディーの流れは、イタリアン・ロックならではのリリカルな流れだ。
「秘蔵盤」的な評価がなされるアルバムだ。」


LATO Ⓐ 
1.伝説 
FAVOLA (3:46) 
2.朝
IL MATTINO (9:19) 
3.各人
OGNUNO SA (5:19) 

LATO Ⓑ 
1.父
PADRE (8:41) 
2.街での仕事
LAVORO IN CITTA' (5:56) 
3.めまい
VERTIGINE (7:11) 


Lato 1 
FAVOLA 
IL MATTINO 
OGNUNO SA

Lato 2 
PADRE 
LAVORO IN CITTA'
VERTIGINE 

Tutti i brani sono di P. Sponzilli - E. De Luca - Ed. Fama/S.I.A.E. 

FEDERICO TROIANI - piano - organo - piano elettrico - mellotron - voce 
NICOLA AGRIMI - chitarre acustiche - chitarre elettriche 
PIERFRANCO PAVONE - basso 
ROBERTO SENZASONO - batteria - percussioni 
HENRYK TOPEL CABANES - voce solista 

* Chitarre elettriche PERICLE SPONZILLI 
* in "FAVOLA" e in "IL MATTINO" orchestra diretta da Natale Massara 
* in "IL MATTINO" chitarra acustica - in "LAVORO IN CITTA'" mellotron Maurizio Vandelli 
Tecnici: Walter Patergnani e Dino Gelsomino 
Mix: Maurizio Vandelli, Walter Patergnani assistiti da Federico e Roberto 

Realizzazione a cura di MAURIZIO VANDELLI 
In copertina disegni di: Wanda Spinello 

PRODOTTO DA DISCHI RICORDI SpA 


北村昌士による解説より◆

「ここに登場のレアーレ・アカデミア・ディ・ムジーカは、今回同時に発売されるムゼオ・ローゼンバッハ、それに次のシリーズあたりで出そうなチェルヴェロと並び、イタリア・リコルディ社の秘蔵ロック・グループとして知られる。知られるといっても、実際のロック・バンドとしての実体は殆んど不明で、単にこうしてレコードが1枚残っているだけだから、活動自体は当時としてはやはり不成功に終わってしまったのだろう。PFM、バンコ、オルメ、フォルムラ・トレ、ニュー・トロルス、オザンナなどの有名グループに比べると、何が劣るというわけでもないのに、不測の事態か何かに見舞われたのか知らないが、彼らは揃って1975年頃までの間に完全に姿を消し、次いで訪れるシンガー・ソングライターのブームに席を譲っているのだ。人の伝えるところによれば、当時ロック・グループを結成していた人たちは、今は殆んどシーンから姿を消すか、セッション・マンか何かで細々と喰いつないでいるというし、かのラッテ・ミエーレほどの凄まじい実力を誇ったバンドのメンバーですら、今ではテレビの歌番組の司会などやっているという。また巷でロックといえば、ウルトラヴォクスやヒューマン・リーグ、ジョン・ライドンなどの、いわゆるニュー・ウェイヴ以降のロックを指すというのだから、本国イタリアにおいて今やプログレは完全に忘れられてしまっているようなありさまらしい。
 本題に入ろう。
 ロックが発生し、それが60年代から70年代を経て世界的に支持される表現形態を獲得したのは周知だが、そこにはひとつの明確な鉄則があった。それは音楽として演奏され表現されたものが、演奏者の技術や自我としてではなく、ある確固とした容体として、それを生んだ時代や社会の構造と周密な一体化を果たしていたことである。つまり音楽と聴衆との関係がまさに〈生きた〉ものであり、ひとつの行動パターンの象徴化であり、相互の自発性の均等に反映された文化としての価値を有していたのである。だとすれば、ロックはある意味で〈クラシック〉ではなく、〈民族音楽〉でなくてはならないといえる。イタリアのロックを現在こうして聴き返すと、驚くほどイタリアという土醸に忠実な、また不自然な世界志向(インターナショナリズム)のない、素朴で真実味のある印象というか感触を難も与える(引用者注:原文ママ)だろう。こうして長い時間を経ても彼らの音楽が、多くの人々に愛されるのはまさにそのためなのだろうと思うが、一種の地域性の表出が、逆に彼らの音楽内容を借り物ではない、本物のアイデンティティ表現として強固に根づかせていたのだとすれば、それは昨今の日本のロックと称されるもの――ロンドンあたりで起った流行と取っ換え引っ換え、その外見の形式のみ吸収して大手を振っているもの――とまるで対極的であるといわねばならない。僕は今もラッテ・エ・ミエーレやバンコの音楽をきくと、ヨーロッパ文明の輝やかしい発生地である地中海沿岸の豊饒のイメージをどんな文献を読むよりも鮮明に感じ(引用者注:「感じ」に傍点)とることができる。その時彼らは音楽という言葉(形式)によって、自らの歴史や感情(内容)を語るのである。つまり彼らはロックという〈形式〉を使用して、自らの〈内容〉表出するその過程を、古来のイタリアの芸術家と全く同様のシチュエイションによって繰り返しているのだといえる。イタリアの音楽家にとっての伝統は、自己表現と切っても切れない関係をもっているのだろう。しかし逆に伝統社会の音楽文化、要するに民族音楽、世俗音楽といわれるものが、主体である音楽の側の個性の表現や自意識の表出、あるいは改革的な働きをまったく許さない保守性を身につけていることも同時に考えられる必要がある。民族音楽演奏家にスターもアヴァンギャルドも存在しないように、例え達人はいたとしてもそれは個性ではなく、技術と形式の踏襲能力への評価なのである。
 ロックにはいつの時代も、相対的にではあるけれど、こうした形式に対する客観性と、それを破壊・変革しようとするアヴァンギャルドとのせめぎ合いのような現象が内在している。60年代に世界を席巻したヘヴィ・メタル・ロックと、現在のヘヴィ・メタルと呼ばれる音楽とが、たとえ音は似ていてもその本質的な内容、音楽領域全体に占める位置、音楽家としての質それぞれに全く異ったシチュエイションをもっていることなどもこれのいい例だと思う。
 ひとつ考えて欲しいのは、私たちが何故ヨーロッパのロックなんぞを、それも全盛期から遠く時を隔てた、本国でももはや忘れられてしまっているような音楽作品に心を寄せるのかということである。それにはまず〈プログレッシヴ・ロック→ヨーロッパ→クラシック→美〉という一般的な連想の図式があることがひとつ。これはEL&Pキング・クリムゾン、イエスなどの英国のグループが残した構築主義的な音楽性と、日本人の潜在的なヨーロッパへのイメージが微妙に結びついてできあがったものだ。先ほどロックの有り方は〈クラシック〉よりも〈民族音楽〉であると書いたのは、日本人のこのような西欧コンプレックスに基いた保守的な教養の指すところの芸術趣味が、ロック本来の客観的な有り方とは全く違うということである。それは結局形式のみへの信仰を生み、内容の実を切り捨て、もの事を文字通り〈形骸化〉へと向かわせる。
 もちろん現在のイタリアのロックへ向けられた関心がそんなに卑俗な次元のものではないと信じるが、生活や歴史や自己の存在自体から切離した音楽との接し方は、はっきり言って無意味だからやめた方がよい。
 イタリアのロックが1960年代に英米のロック・シーンから絶大な影響を受け、それを自分たちの国の中での個有な表現へとつくり変えようとした時、そこに注がれた音楽家の努力は非常に大きなものであり、かつ従来の状況に対して強固にアヴァンギャルドなシチュエイションを獲得していたのだろうと思う。つまり自分たちの文化の内部にロック・ミュージックを〈民族音楽〉として位置づけるまでの間、先駆者たちはあくまで〈内容〉のための〈形式〉を培うことができたのだと思う。しかしそれが社会の内部にいったん根づくと、今度は〈内容〉辞退の向上よりも、〈形式〉をいかに強烈に美しく粉飾するかという保守的な競争に移っていってしまい、もともとのエネルギーはそうして次第に失なわれていったのだろう。形式はあくまで器であって、それがどれだけ立派に美しさを競い合っても、そこはすでに個人の閉じられた興味の範囲の価値しかなく、内容自体の質とは何の関係もないものだから、それが社会的にきちんと存続してゆくということはまずあり得ないのである。
 思うにイタリアン・ロックの滅びの過程はその辺りにあったようだ。しかしそうしたことに早くから危惧感をもって、終始厳格な姿勢と創造態度で音楽にのぞんだのは、知る限りデメトリオ・ストラトスのいたアレアだけだったように思われる。彼らの凄まじいまでの妥協のない創造態度、かたくなな政治性の表出、シュルレアリズムからネオ・ダダまで広汎な前衛芸術のコンセプトまでを濃密に包摂していたことなど、あれは彼らが単に勝手に望んでそうしていたのではなくて、そうしなければ自己と音楽内容のヴォルテージが最高の状態に保てなかったことを彼らは知っていたのだろうと僕は解している。いわば真の創造とはそれだけキツイものなのだ。
 1972年に発表されたレアーレ・アカデミア・ディ・ムジカのアルバムは、5人の演奏者からなる、ちょうど初期のPFMを思わせる牧歌的な抒情美に溢れるサウンドを所有している。ピアノが浮遊感覚のある夢見ごこちのリズムで全体をリードするA―2 “Il Mattina”、ヴァニラ・ファッジやヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイターのようなヘヴィなオルガンの導入されたB-1 “Padre”、ラストの“Vertigine”などが気に入った。全体的にガッチリ構築された緻密さはないけれども、ゆったりとスペース感のある雄大で荒っぽいインストゥルメンタル・パートはなかなかの迫力だ。1972年といえば、まだシーンにも衰退のかげりはなく、新しいグループやアーティストが続々デビューしていた頃だ。レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカには、そんな時期の若々しいエネルギーが溢れている。
 さて、このアルバムはずっと以前にフールズ・メイトに紹介されてから、長い間、数万円という馬鹿げた値段で売り買いされてきた。しかしそういうことに血道を上げることで、「美」を手中に獲得できると思ったら大間違いで、美とは決して金銭的価値とは間違っても比例しない。それはもっとうつろいやすく瞬間的なものなのだ。ゲーテは『ファウスト』の中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言って、その本質を永久にとどめることがいかに困難であるかについて著している。
 音楽が差し出すものは、たとえそれがいかに優れていようともすべてではない。少くとも半分は、あなたの心の中にあらかじめ所有されて、ただ気付かれずに眠っているのである。」


◆本LPについて◆

E式見開きジャケット。中ジャケにトラックリスト&クレジット(伊文)。インサート表にトラックリストと北村昌士による解説(’82年9月)、「10:1 特典券」。インサート裏に「お知らせ 「ユーロピアン・ロック・コレクション」から「ネクサス・インターナショナル」へ。」、「美狂乱について……」(たかみひろし)。

本作はノスタルジック&メランコリックかつシュルレアリスティックでたいへんすばらしいです。イタリアン・ロック特有のテクニックのひけらかしやコンセプト・アルバム臭がないのも好ましいです。CSN&Yグランド・ファンク・レイルロードといったアメリカン・ロックの影響もそこはかとなく感じられます。
柱にタロット・カード風のレリーフをあしらった人形劇舞台が描かれたデ・キリコ風のジャケ絵(一部コラージュ)も無気味でよいです。

レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカの前身は1960年代から活動していたビート・グループで、1968年にはイ・フォルクス(I Fholks)名義でジミ・ヘンドリックスピンク・フロイドのローマ公演の前座を務め、シングル盤(片面はアイアン・バタフライのカバー)も出しています。
1972年にレアーレ・アカデミア・ディ・ムジカとして本作をリリース、プロデュースはサン・レモ音楽祭にも出場していた人気バンド、エキペ84(Equipe 84)のヴォーカリスト、マウリツィオ・ヴァンデッリが担当しています。その後1974年にセカンド・アルバム『La cometa』がレコーディングされていますがお蔵入り(2013年にCD化)。1974年にはヴォーカリスト、ヘンリク・トペル・カバネスの幼馴染でシンガー・ソングライターアドリアーノ・モンテデューロ(Adriano Monteduro)のソロ作に、
1975年には女性シンガー、ナーダ(Nada)のソロ作『1930: Il domatore delle scimmie』にレアーレのメンバーが参加しています。
2000年代になってアドリアーノ・モンテデューロがレアーレ名義で2枚のCD(2008年の『Il linguaggio delle cose』と2009年の『Tempo senza tempo』)をリリース、その後、本作ではゲスト参加だったイ・フォルクスのギタリスト、ペリクレ・スポンツィリが中心となってレアーレ名義で2枚のCD(2018年の『Angeli mutanti』と2022年の『Lame di luce』)をリリースしています。

★★★★★


Il mattino


Padre


Ognuno sa